このページはWikipediaおよび野田市ホームページを参考に作成しました。

春日町第三自治会域内の生い立ち

野田市に居を構えて37年が経ちます。いまでは第二の故郷として定着していると思います。
入居当初は「自然環境の良さ」を感じる一方、東京への通勤や買い物などで不便を感じていました。
自治会活動も会員各位のご協力でこれまで長きの亘って継続してきています。
会員のほとんどは、北海道から沖縄に至る日本全国からの出身者で構成されています。
自治会域内には、神社・お寺はありません。
 ところで、みなさんは「野田市の歴史」、「春日町」・「五木新町」や「川間駅」・「七光台駅」の名前の由来をご存知でしょうか?

昔の野田地域

野田市には「野田貝塚」や「山崎貝塚」などの古代遺跡があることはご承知だと思います。
 ということは古代から人が住んでいたことの証が存在しています。
 残念ながら江戸時代より前のことは資料に乏しく詳細は判りません。
 江戸時代には山崎に岡部長盛の居城が築かれ、後に堤台(野田八幡神社付近)に移ったと言われています。
 また、江戸時代には「醤油産業」が勃興し水に恵まれた水運を利用して大消費地である江戸へと輸送され、醤油生産地として地位を築いてきました。
陸路では5街道のひとつである「日光街道」が通じ、山崎宿・中里宿などの宿場も興りました。

野田市の誕生まで

1.1889年(明治22年)4月1日に大きな合併が野田の6地域で実施されました。
  それまでは小さな集落があちこちの点在していましたが明治期に6地域に集約されました。
 ①野田町・清水村・上花輪村・中野台村・堤台村・桜台村の飛地・今上村(玉葉橋付近)の飛地が合併して野田町が置かれる。
 ②大殿井村・目吹村・鶴奉村(明治7年、鶴嶋新田と奉目新田が合併)・柳沢新田・宮崎新田・中根新田・横内村・花井新田の飛地が合併して旭村が置かれました。
 ③山崎村(明治初期、亀山新田を編入)・今上村・桜台村・花井新田・堤根新田・宮崎新田の飛地・清水村の飛地・上花輪村の飛び地が合併して梅郷村が置かれました。
 ④谷津村・吉春村・蕃昌新田・五木村・五木新田・岩名村・座生新田・尾崎村の飛地が合併して七福村(春日町第三自治会の母体)が置かれました。
 ⑤東金野井村・中里村・船形村・尾崎村が合併して川間村が置かれました。
 ⑥木野崎村・三ツ堀村・瀬戸村・二ツ塚村・上三ケ尾村・西三ケ尾村・下三ケ尾村・大青田村の一部(利根運河の北側)が合併して福田村が置かれました。
2.1950年(昭和25年)5月3日に野田町・旭村・梅郷村・七福村が合併し、「野田市」が誕生しました。
3.1957年(昭和32年)4月1日 - 川間村・福田村を野田市に合併しました。
  1961年ごろの春日町第三自治会周辺の航空写真:国土地理院地図(七光台研修区もありません)
4.1965年(昭和40年) - 野田市内の川間地区に日の出町を設置しました。
5.1978年(昭和53年) - 野田市内の七福地区に春日町・五木新町を設置しました。春日町第三自治会の母体が誕生しました。 1978年ごろから順次転居してきました。
6.1980年(昭和55年) - 七福地区に岩名一丁目・岩名二丁目が設置されました。
7.2003年(平成15年)6月6日 - 関宿町を編入合併し、現在の野田市となりました。
8.2012年(平成24年)七光台駅西特定土地区画整理事業の区域内は、平成24年10月27日(土曜日)から「光葉町一丁目」、「光葉町ニ丁目」及び「光葉町三丁目」の新町名になりました。
 ■川間駅の由来
  江戸川と利根川の間に位置するところから、明治22年に旧中里・東金野井・船形・尾崎の4ヵ村を合併したおりに「川間村」と命名されました。
  昭和32年に野田市に編入されたこの町に駅ができたのは昭和5年で、駅名は旧村名が生かされて「川間」と命名されました。
 ■七光台駅の由来
  「七光台」は蕃昌新田野田(市内北部地区)に属した山林地域でした。滑空練習場として買収されましたが、準備中に終戦を迎えました。のちに食料増産の目的をもって国により買収され、開拓者に土地を払い下げられました。
  当時の開拓者は「七福開拓組合」と「光風台開拓組合」を組織し、昭和25年に市制施行に因で、両組織の頭文字を採り七光台としました。
  七光台駅の開業は1968年(昭和43年)7月1日 - 七光台検修区、七光台電車乗務区の開設に合わせて開業されしました。

野田市のプロフィールと歴史

こちらには、野田市のプロフィール、市の歴史などが紹介されています。(外部リンク)【2020/4/29 更新】

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